ブログWeblog

ブログトップ

「建築の旅」31

2023.03.23 建築の旅

こんにちは。

かつて古代ローマ帝国の首都として栄華を極めたローマは、中世末の1370年頃には、人口が17000人あまりの地方都市の一つになってしまっていました。

ルネサンス期に入ると古代ローマ遺跡の発掘が進み、ローマ教会の力が増すにつれて人口が増え、都市の再生が進みます。
その象徴は中世に建てられたまま老朽化していた、サン ピエトロ大聖堂の建て替えでした。

1506年にルネサンス建築の巨匠、ブラマンテが基本プランを描き、その後さまざまな建築家による計画と建設を経て、1546年からの17年間はミケランジェロが担当し、ドームの下までの建設を進めます。その後ドメニコ フォンタナがドームを架け、1612年に完成しますが、さらにベルニーニが広場の整備をするのにあわせて増改築が行われ、今の姿となるのは1667年です。

その頃はすでにバロックと呼ばれる時代になっていました。
バロックの巨匠といえば、なんと言ってもベルニーニでしょう。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニは1598年生まれ。1508年生まれのパラディオとは約100年、1475年生まれのミケランジェロとは約125年の年の差がありますので、ルネサンスやマニエリスムの作家たちとは全く別の世代と言えるでしょう。

彫刻家の父を持つ彼は、若くして類い稀な彫刻家としての才能を発揮します。
パトロンだったボルゲーゼ家のために作られた有名な「アポロとダフネ」は若干26歳の時の作品ですが、すでに完成されたスタイルと技法を備えています。
それらの彫刻作品で一世風靡したベルニーニは、歴代のローマ法王の庇護のもと、多くのプロジェクトを担当する国家的建築家となっていきます。
ベルニーニの多くの作品の中でも、やはりバチカンにあるサン ピエトロ広場は圧巻ですね。
1650年、ベルニーニが52歳の時に設計が始まり、1667年に完成します。

以前は中世にできた不整形な広場がありましたが、そこに楕円と台形を組み合わせたシンメトリーの広場を作り、巨大な古典様式の列柱回廊で囲むという大胆なプランにより、サン ピエトロ大聖堂がカトリックの最高権威であり、古代ローマ帝国の偉大さを継承する存在だということを見事に表現しました。そして、今でもその存在感は色褪せることがありません。

このように、バロックのローマでは、道路や広場と建築を同時に整備する、都市計画プロジェクトが多く遂行されます。
ポポロ広場の双子教会。

映画「ローマの休日」で有名なスペイン広場にあるバルカッチァの噴水もベルニーニの作。

古代ローマの競技場だったところを整備したナボナ広場は、競技場のままの両端が円形の細長い形をしています。
中央にある、世界の四大河の泉という噴水もベルニーニの作です。

左手にあるのは、ボルロミーニの設計による、サンタニェーゼ イン アゴーネ教会で、1652年に着工しました。
フランチェスコ ボルロミーニは1599年生まれ。
ベルニーニとは1 歳年下の同世代で、石工を父に持つ彼は、若い頃は職人としてベルニーニと共に仕事をしますが、芸術家気質のベルニーニとは意見が合わず、やがて建築に特化した作家として独立します。
ところが偏屈な職人気質で根暗な独身だったボルロミーニは、ローマ法王に愛された同世代で明るい性格のベルニーニの影に隠れてなかなか仕事にありつけません。しかし建築家としての才能はベルニーニに決して劣るものではありませんでした。
数少ないボルロミーニの作品で、初期のものが、サン イヴォ チャペルです。サンティーボ デッラ サピエンツァ聖堂の中にあります。
三角と円を組み合わせた平面形がそのままクーポラの頂部まで立ち上がる内部空間は、バロック期のものとは思えないほどシンプルかつ清廉で、その構造的合理性は近代にも通じるところを感じるほどです。

そして彼が47歳になる1646年、サンカルロ アッレ クワトロフォンターネ教会というバロック建築を代表する名作を生み出します。
四つの角に噴水がある交差点に面するとても小さな教会です。この時代になると大きな敷地にゆったりと建てられることはなく、建築家は偏狭な敷地と格闘しなければなりませんでした。
ルネサンスの時期に尊ばれた理性や宇宙の摂理の表現としての純粋な円形の内部空間やシンメトリーな外観は望むべきもなく、円形のかわりに楕円を用いたり幾何学を歪ませることにより敷地内に建築的秩序を構築する必要にせまられました。
そして、その結果生まれたのが、この美しい内部空間でした。
ルネサンス期の建築に比べて、空間にうごめきがあり、幻想的です。とても小さいにもかかわらず、なんと神々しいことか!
どこからともなく入ってくるようなこの柔らかな光は、どうやって生み出されるのでしょうか。

ずっとその場にたたずんでいると、何故か自然に涙が出てくるような空間でした。

「ベルニーニを超えてるよ、ボルロミーニ!」
判官びいきの私は思わず心の中で叫んでしまいました。
この教会を見たベルニーニはボルロミーニの才能に嫉妬し、この建築は古典的建築の美学から著しく逸脱していると、酷評します。

その後も法王の権威に近いベルニーニが、何かにつけボルロミーニの邪魔をしたのか、または彼自身の特異な性格が災いをしたのかは知りませんが、以後ボルロミーニはほとんど仕事がなく、1667年、68歳の時、失意のうちに自殺してしまいます。

その3年後の1670年、ベルニーニは、ボルロミーニの教会のすぐ近くに、サンタンドレア アル クィリナーレという、同じく楕円形の平面をもつ小さな教会を完成させます。
「これぞベルニーニの楕円建築だ」と見せつけたかったのか、それとも、ライバルの才能の偉大さを認めて、オマージュの意味を込めて設計したのか...。

その真意は分かりませんが、出来上がってみると、やはりボルロミーニには遠く及ばないと思い知らされたのはベルニーニ自身だったのではないでしょうか。

性格的にも、その生き方も、まるでバロックの陽と陰のように対照的なベルニーニとボルロミーニでしたが、この二人の仕事によりバロック建築はイタリアだけでなく、ヨーロッパに広がっていきます。

これはイタリア北部の都市、トリノにある、グァリーノ、グァリーニ(1624-1683)の設計によるサン ロレンツィオ教会です。
楕円ではありませんが、ボルロミーニと同じ幻想性を感じさせてくれるバロック建築です。



最後に私が好きなバロックの画家、カラヴァジオ(1571-1610)の「キリストの埋葬」をお見せしましょう。
ルネサンスの絵画に比べて、より写実的で、光が劇的で、理想的な人間を理性で描くのではなく、生身の人間が持つ驚きや悲しみや怒りなどの劇的な感情の動きを正直に表現するようになります。
その意味では建築の表現と共通していますね。
カラヴァジオ本人は破天荒な人生でしたが、その絵画はレンブラントなど、その後のヨーロッパの絵画に大きな影響を与えることになります。

建築史のバロック以降は、中心がフランスに移り、ロココから新古典主義に移行していきますが、このあたりの建築は装飾的すぎたり、表面的だったりするものですから好きにはなれず、あまりスライドがありません。

イタリアが長く続きましたので次回からは少し気分を変えて、アフリカのモロッコにある歴史都市、フェズを訪れることにしましょう。

ではお楽しみに。

(横内)